縁起
高野山普門院
弘法大師空海の剃髪師範、勤操大徳(ごんぞうだいとく)が弟子、空海の高野山開創をよろこび、
天長元年にこの山に一寺を建立したのが当院のはじめです。
南都の学匠として高名であった師を偲ぶ弘法大師御自筆の 行状讃文をもった写実的肖像画(国宝)を伝えます。
高野山普門院 本堂
高野山は、弘仁7年(816)弘法大師空海によって開かれ、現在まで連綿とその法燈が護り伝えられています。
こうした歴史の中、明治21年(1888)に起こった高野山大火災は、山上に建ち並んでいた多くの寺院や町家を焼き尽くし、
高野山は壊滅状態に陥りました。
当院もその時に全焼しましたが、時の住職の努力により、徳川家霊台の本殿を金剛峯寺より払い下げを受け、移築したのが現在の当院の本堂です。
本尊は真言宗の根本の仏様の大日如来ですが、特に普門万徳の大日如来と呼ばれ、その名前が当院の由来となりました。
寺宝
勤操大徳像(国宝)
絹本着色 縦166.4×横136.4
平安時代(12世紀)勤操(754-827)は三論宗の高僧で、平安初期きっての碩学の一人。貧窮者を布施で救済する文殊会を創始するなど慈悲深い実践者としても尊敬を集めました。
延暦十二年(793)に空海に虚空蔵求聞持法を授けたと伝わります。
画面上部の讃文は、勤操の弟子たちが、師の死後にその冥福を祈り学徳を称えるために木像を造立したとき、弘法大師空海が寄せた追悼文。
現本は霊宝館に預けているため、写真を本堂に掲示しています。
上段の間
表座敷として、高野山の寺院の主要行事に使われます。
庭に面しているため、普段は昼食会場や 休憩場所として使用します。襖絵は太閤秀吉の醍醐の花見を再現しています。
高野山には珍しくお姫様が描かれています。
本堂 天井
本堂はかつて金剛峯寺北側にあった東照宮の本殿を、金剛峯寺より払い下げを受け移築したものです。1650年ころ、日光東照宮を参考に建てられました。
柱は金で塗装され、極彩色も残っています。
普門院庭園
高野山普門院の庭園は、普門院縁由並累葉略記(ふもんいんえんゆならびにるいようりゃっき)によりますと、元備中松山城主小堀遠江守(小堀遠州候)の築造といわれています。
書院から飛び石が打たれ、池に紀州産の自然石でできた石橋を架けて亀島に至り、更に出島に架けられた石橋から、本堂の裏手に達する道がつけられています。
池は屈曲の多い池泉形式がとられ、池泉中に亀島をもうけ南部(右方)を出島(鶴島)とし、出島の奥は三尊石風に配石された枯滝組となり、さらにその上部にも枯瀧組があって、上下の滝組をつなぐ小石敷の枯流れがつくられています。
山全体に多数の刈り込みを配しており、南部の山は芝生の築山様式となっていて、多分に絵画的な表現がとられています。